Tout poeme est un blason, il faut le dechiffrer. - Jean Cocteau
雛がたり
雛――女夫雛は言うもさらなり。桜雛、柳雛、花菜の雛、桃の花雛、白と緋と、紫の色の菫雛。鄙には、つくし、鼓草の雛。相合傘の春雨雛。小波軽く袖で漕ぐ浅妻船の調の雛。五人囃子、官女たち。ただあの狆ひきというのだけは形も品もなくもがな。紙雛、島の雛、豆雛、いちもん雛と数うるさえ、しおらしく可懐い。


毎年桃の節句が近づくと読み返す泉鏡花の掌編『雛がたり』。以前にも書いたように私はピグマリオンコンプレックスで人形をテーマにした文学作品を蒐集しているのだが、雛人形を扱った作品というのは意外にも多くない。漫画にはいくつかあるようだが、どうもオカルトに流れがちなのが残念だ。鏡花による随筆とも小説ともつかないこの小品は、そういう意味では貴重な一文である。

鏡花が思い出すのは母の雛人形。桐箱から出した雛を大事そうに膝に抱いてじっと見つめていた若い母。しかし母は亡くなり、形見の雛人形も大火のどさくさで無くなった。
それから十二、三年経って、鏡花は静岡への旅に出る。茶店で一休みをして、手洗いを借りようと裏へ回ったとき、不思議なものを目にした。

遠くで、内井戸の水の音が水底へ響いてポタン、と鳴る。不思議に風が留んで寂寞した。
見上げた破風口は峠ほど高し、とぼんと野原へ出たような気がして、縁に添いつつ中土間を、囲炉裡の前を向うへ通ると、桃桜溌と輝くばかり、五壇一面の緋毛氈、やがて四畳半を充満に雛、人形の数々。
ふとその飾った形も姿も、昔の故郷の雛によく肖た、と思うと、どの顔も、それよりは蒼白くて、衣も冠も古雛の、丈が二倍ほど大きかった。
薄暗い白昼の影が一つ一つに皆映る。
背後の古襖が半ば開いて、奥にも一つ見える小座敷に、また五壇の雛がある。不思議や、蒔絵の車、雛たちも、それこそ寸分違わない古郷のそれに似た、と思わず伸上りながら、ふと心づくと、前の雛壇におわするのが、いずれも尋常の形でない。雛は両方さしむかい、官女たちは、横顔やら、俯向いたの。お囃子はぐるり、と寄って、鼓の調糸を緊めたり、解いたり、御殿火鉢も楽屋の光景。
私は吃驚して飛退いた。
敷居の外の、苔の生えた内井戸には、いま汲んだような釣瓶の雫、――背戸は桃もただ枝の中に、真黄色に咲いたのは連翹の花であった。
帰りがけに密と通ると、何事もない。襖の奥に雛はなくて、前の壇のも、烏帽子一つ位置のかわったのは見えなかった。――この時に慄然とした。


それはうららかな春の陽気から生じた蜃気楼であっただろうか。怪異というにはあまりにも懐かしい幻である。
私は雛人形を見るのが好きだ。東北の旧家に保存されている享保雛はすばらしかったし、東京のアンティークショップで見た明治大正の御殿造りの雛人形も繊細で美しかった。鳥取の流し雛や京伏見の土雛も可憐、雑貨屋などで売られている現代物の縮緬細工もそれはそれで愛らしい。
だが何よりも魅力的なのは失われた雛ではないだろうか。誰かの思い出の中にある雛は、二度と出会えないからこそどれもいとおしい。それが実際には安価な量産物の雛人形であったとしても、鏡花の言う「竜宮の幻」のように、実際以上にあやしくまばゆく思い出されるのであろう。

雛がたり(青空文庫)

posted by Mlle C | 22:58 | *日本語文学 | comments(0) | trackbacks(0) | 編集 |
愛憎の王冠

 


『愛憎の王冠〈上〉――ブーリン家の姉妹2』
『愛憎の王冠〈下〉――ブーリン家の姉妹2』
フィリッパ・グレゴリー/著 加藤洋子/訳(集英社文庫)

原題はQueen's fool(女王の道化)なのだが、なんでこんなハーレクインみたいな邦題にしちゃったんだろう。副題の「ブーリン家の姉妹2」というのも原題にはない。確かにブーリン家の姉妹の続編的位置づけの作品ではあるが、ブーリン家はもうほとんど話に絡んで来ず、主人公はメアリ1世とエリザベス1世の姉妹なので、つけるならテューダー家の姉妹とでもするべきだろう。
そんなわけであれだけ文句を言っていた『ブーリン家の姉妹』の続編に手を出してしまったのは、メアリ1世に好意的に書かれていると聞き及んだからだ。
私は特にメアリが好きというわけじゃない。だが彼女は悪く言われ過ぎだ。以前姫野カオルコがブログで「メアリ・スチュアートは自分が応援しなくても世界中の偉い男たちが味方してくれるからいいけど、同じメアリでもブラッディ・メアリの方は私が味方してあげなくちゃという気持ちになる」みたいなことを書いていたけど、まさにその心境。世間の奴らはブスには何言ってもいいと思ってるからな。

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posted by Mlle C | 22:03 | *英語文学 | comments(2) | trackbacks(0) | 編集 |
パンドラの匣

パンドラの匣

2009年 日本
監督・脚本・編集 : 冨永昌敬
原作 : 太宰治
出演 : 染谷将太, 川上未映子, 仲里依紗, 窪塚洋介, ふかわりょう
音楽 : 菊地成孔


実は飛行機の中で見たのだけれど、ちゃんと映画館で観ればよかった。 原作厨も大満足の良い映画でした。


太宰文学というと、とにかく暗い、というイメージを読みもせずに(あるいは『人間失格』一作を読んで)抱いている人が多いが、救いようがないほど暗い作品、というのは実はそんなに多くない。
しかし、じゃあ底なしに明るいのか、と言うとそれもまた違う。
太宰は、おかしみの中にペーソスを、かろみの中に恐怖を、明るさの中に死の気配を上手くちりばめて読者に差し出す。
そして、原作のストーリー等は多少改変しているにも関わらず、原作の持つ「手触り」はそのままスクリーンに移し変えているのがこの映画だ。

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posted by Mlle C | 01:42 | 映画の話 | comments(2) | trackbacks(0) | 編集 |
ついった始めました
「お前のブログは更新がなさすぎて生きてるのか死んでるのかわからん」
と複数の方からご指摘をいただき、自分でも確かにそのとおりだと思いまして、生存報告の場として噂のTwitterに登録してみました。 

http://twitter.com/agneaudor

システムがまだよく分かってないんですが、アカウント持ってる方はフォローして下さい&させてください。(って、頼むようなものなのかもよく分かんね)

そのうち飽きてあっちでもこっちでも生死不明になったりして……

posted by Mlle C | 23:37 | 日乗 | comments(10) | trackbacks(0) | 編集 |
ミープ・ヒース氏死去の報
命をかけて友人を救おうとした女性がいた。五十年たってその人は老婦人となり、まるで何事もなかったかのような静かな表情で、小さなアパートの一室のソファーに腰掛けていた。友人たちも、せっかく生き残った者も、一緒に救おうと協力し合った人たちも、みんな死んだ。やがて彼女も死ぬだろう。そしていつかわたしも死ぬ。
 小川洋子『アンネ・フランクの記憶』p.155 (角川文庫)



今朝、メールソフトを立ち上げてみたらGoogleAlertからのメールがドバドバ届いていて、何事かと思ったら、そういうことなのであった。
御年100歳。
年齢が年齢だし、不謹慎ながら「Miep Gies」の語をAlertに加えておいたのはこんなこともあろうかと思ってのことだったけれど、実際に訃報に接してみるとやはり粛然とした気持ちにならざるを得ない。ついに逝ってしまったかと。

小川洋子の『アンネ・フランクの記憶』で、アンネの友人だったジャクリーヌさんにインタビューをしていた著者が、忽然と「今自分は死んだ人間を話題にしているのだ」と気づく場面が出てくる。私たちにとってアンネ・フランクは歴史上あるいは文学史上の人物だけれど、ジャクリーヌさんやミープさんにとっては何よりもまず親しい友人であった。
生き残るのも、英雄扱いされるのも、死んだ友人について語りつづけるのも、簡単なことではなかっただろうと思う。彼女が心痛や悲しみを抑えて語り続けてくれたことに改めて感謝したい。願わくばミープさんの魂が永遠の安らぎの中に憩わんことを。

以下、記事の引用

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posted by Mlle C | 23:56 | 歴史の話 | comments(0) | trackbacks(0) | 編集 |
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